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2024年3月13日水曜日

国土地理院の写真から時代の変化を確認できました。玉野市十禅寺山周辺

googleマップで八浜の両児山周辺の地図に間違いがあることに気が付き、他にも多くのミスが有ることに驚きました。確認の意味で国土地理院や他の地図を少し真面目に見てみました。民間ではyahoo地図だけがミスが少ないことがわかりました(まさかと思ったのですが、ネット上の地図は間違いが多すぎることに初めて気が付きました。)。
今回、国土地理院地図や航空写真によって私の幼い頃の記憶が鮮明になったり、新たに発見できたことがありますのでそれをアップすることにしたのです。
十禅寺山の上にぽつんとある建物はいつ頃できたの?
まず最初に玉野市田井にある十禅寺山周辺の変化を発見できました。
現在は一軒の家が山の上にあります。

撮影期間(1961年から1969年)
十禅寺山は今と大きな変化はありません。一軒の家はありません。
このときに海に浮かぶ多くの筏を発見できました。驚きました。
これは真珠の養殖筏です。知っています。
実は私はこの真珠の養殖筏の上に乗り釣りをしたことがあります。
筏の下にはチヌ(クロダイ)が集まりすぐに食べきれなくなるまで釣れたのです。また、アコヤ貝の貝柱もとても美味しかった記憶があります。
その養殖筏がある日、急になくなった記憶があるのです。
当時、瀬戸内海でも真珠養殖が盛んだったのでしょうか?
ネットで調べると、当時の記録が少し残っていました。
---------一部のみ抜粋-----------
岡山県水産課資料より
……真珠養殖には全く縁のなかった岡山県でも、32年からこの養殖が行われるようになり、35年には、県下九ケ所で経営されることになった。
・・・・・・・・
本県海面の真珠養殖場としての特長は、豊かな栄養と、水温比重の変化によって、貝の成育も良く、良質の真珠が生成される・・・・・
32年にはまず東部の日生地先、及び県中部の玉野地先で経営が始まった。
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やはり、真珠の養殖は岡山県であったんですね。

1974年-1978年
この写真を見ると真珠筏はすべて消滅し、かわりに材木置き場が点在しています。真珠の養殖事業が完全になくなり、変わって輸入材木の貯木場が存在しています。
この頃からの記憶はかなり私にも鮮明に残っています。
それとは別に、十禅寺山の上に一軒の家が写っています。位置は同じです。それ以降もずっと写っています。そして果樹園のようなものが一気に広がっています。(実はこの記憶が私にはありません。)拡大してみると十禅寺山周辺から大藪地区の奥深く、さらには大崎地区まで広がっているのです。相当の規模です。みかん畑のようです。みかん畑を作った人の家でしょうか?
玉野市の図書館に十禅寺山のみかん畑の資料がありました。
目録ID mp01082100-200020
製作年 昭和44年(1969)
貴重な写真が残っているものです。
更に航空写真を除いてみました。

1979-1983年
ここでも大きな変化が見られます。貯木場が減ってきているのです。
更に驚いたことに、みかん畑が殆ど消えています。十禅寺山以外にも極端に減っています。おそらくオレンジ輸入自由化と連動して補助金により、みかんの木を伐採したのではないかと思います。
玉野市は当時は造船の街として栄えていたためなのか、造船以外の事はあまり大きなニュースにならなかったのかもしれません。それ以外のことはあまり着目されなかったのでしょうね。
山田地区の塩田(昭和30年頃からの流下式塩田)跡がこの写真の時代までは残っています。
この跡から塩田は消えていったようです。

2024年度国土地理院最新版(実際の撮影に美は数年前と推測)
ほぼ現状の写真です。
十禅寺のみかん山は完全に消滅し、あっという間に森林に戻っているのです。今も残っている大藪地区のみかん畑ですが、面積はごく僅かになっています。
貯木場も完全に消滅しています。
塩田の跡は埋め立てて商業用地や巨大太陽光パネルに変わっています。
海のほぼ中央に一文字の石積みができています。わずか数年間の養殖のために税金を投入した残骸です。今は養殖はないです。
以上4枚の切り抜き写真ですから時代の変化を確認することができました。ごく狭い範囲の歴史ですが、前回調べた八浜の繁栄の後の変化にも共通ですが、人の生活は繁栄や衰退を繰り返していくのでしょうね。
国土地理院の地図はパソコンでなければなかなか使いにくいのですが、石川県の地震や津波の状況など速やかにアップされているところにも感心しました。

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